昭和42年9月18日    朝の御理解
                           



 信心の稽古をさせてもらうという事はいつも神様と私共がどのような場合でも交流しておるという、いつも通いおうておるというよう状態であらなければならない、そういう稽古をしておるわけですね。いつも神様と交流しておると。
今朝、御神前に出られて頂きましたら、皆さんがこう私と一緒に御祈念させてもろうて、それが、皆さんみんなこう形の上においては神様の方へ向かって御祈念をしておるけれども、反対の方を、向こうのほうを向いて御祈念をしておる人達がいくらもあるというような御心眼を頂いた、いうなら、神様のほうへ向いておるようであっても、実際は神様に尻を向けておるような状態である。これでは神様と通わないですね。
ですから、やはり、何の稽古でも同じですけれども、やはりそこには厳しいまでの稽古というのがなされて来ると初めて一人前になるのでございますから、ここでは信心の稽古に通うて来るところと仰るのですから、そういうところを私は稽古しなければならない。いんや、私はこうやって神様のほうへ向いて御祈念をしております、なるほど、形においては神様のほうへ向いて御祈念をしておるけれども、一つも交流してない、ね、向こうを向いた。
これは私がまだ修行、修行中よりもお商売を福岡でさせて頂いとる時分、愛宕下というところがあります、姪浜のところへ、あちらに間借りをしておりました時分にでしたが、一生懸命の自分の願い信心をさせて頂いておるんですよね、お道の方達がみんなそこに一緒に泊まって寝泊まりしております、本当にみんながちょうほうし、休む時は十一字ぐらい、それから私は御祈念にかかります、御祈念にかかりますと御祈念はやっぱり一時間はかかります、そうすると十二時頃から外へ出て御祈念をいたします、皆さんも御承知でしょうけれども、愛宕さんという家のようなお宮さんがありますが、山の頂上に祭っております、山の頂上というても、そうですね、二十分ぐらい登らにゃなりませんでしょうかね、毎晩、そこへ登らせてもらって、その、愛宕山の境内で御祈念をさせてもらい、大祓五巻あげて降りて来るんです、そして、休ませてもらうというような毎日を続けておる時でございますから、まあ、一生懸命の、いうなら、信心をしておる時でございますけれどもですね。
あるその夜の御祈念の時に一生懸命御祈念をしておったつもりだったと、ところがです、御祈念中に眠ってしまったんです、もう、私の修行中の時分にはそれはいろいろ不思議なことがございましたですよ、それは言うても本当ではないと、言うだろうと思うような事があったんです、その中に、それも不思議なことだったんですけれどもね、確かに、あの、あちら南のほうでした、こちらと同じように南の方に向かって小さいお社をお祭りして、小さい八足の上にお祭りをして、そこで御祈念をしておる訳です、ところが頭を下げてから拍手を打ったところが、私はふすまのほうへ向ってるんです、ありゃ、神様がござらんちいうわけですね、寝とってからこうやってから、起きて拍手をしたところが、前に神様はござらずにふすまがある、もう完全に北のほうを向いてしまったのです、こうじっとこうやって向いた後、思わんけれども、もう本当に神様が向こう向けなさったのじゃなかろうかと思うんです、分からん、どういうことであったかわかりませんけれどもです、確かにこちらのほうへ向いて御祈念をしておったはずじゃったけれどもですね、実際、いわば、眠っておる者は目を覚ましてから拍手を打ったところが前の方にふすまがある、ふすまがあるはずがない、完全に後ろにふすまがあるこうあるんです、もう完全に北のほうへ向いてしまっておる。
だから、そういうはっきりと頂けばです、自分に例えば祈りというものが神様に通うていなかった、神様は、お前は神のほうへ向いておるようであるけれども、実は神様には尻を向けておるぞと言われた事でございましたでしょうけれどもです、皆さんも、そういうような事がですね、神様に尻を向けるという事だけではありませんけれども、たとえば信心の稽古をするという事はそのぐらいに厳しいこと、御神前に出るとはもう眠られるけんで御神前に出るというような人がある、こうして眠っておったら誰も分からん、それでは、やはり信心の稽古をしておるとは言えない。
拍手をして神様のほうへ向かったらです、それこそ、後ろから槍先でつつかれるような事があっても振り向いちゃならんとさえ仰る、まだ人声を聞こえるようでは神に一心は届かぬとも仰る、神様に一心、自分の一心というものが通い届くというような稽古をするのです信心とは、ね。
ですから、これは御神前に向かっておるだけではありますまい、私共が、いわば、教えを頂いておるのですけれども、教えとは反対の事を思うたり、おこのうたりしておる時には、もう完全に神様にお尻を向けておるようなもんです、これではみんなおかげは受けられませんですね。
ですから、そういうふうに私共が心が一心に神様へ向かわせてもろうて、神様とはなんとはなしに交流しておる、その事がね、有り難いのであり、楽しいのであるというような稽古をせにゃいかんですね信心とは。
ですから、やはり、様々な工夫が必要なんです、ね、場合によってはお水を、御祈念前にお水をかかって御祈念をする、眠気がつくとまた井戸端へ行ってお水をかかる。というようにですね、それはやはり一つの工夫です、そういう工夫がなさらなければいけません、まあ、いろいろに工夫がございましょうけれども、私共がですね、日にちこうやって信心の稽古をさせて頂いて、心が神様に向こうておるようであるけれども、いやもう、御神前に向こうておる、御祈念をして拝んでおる、その間でも神様に尻を向けておるといったような事があるようなことでは私は信心の有り難さ、信心の尊さとか、というようなものも到底頂けないとこう思う。
神様へ内向こうたら、後ろからやり先でつかれるような事があっても振り向いてはならんとさえ仰っておる、人の声が聞こえるようではまだ神に一心は届かんと仰る、ね、一心のものがなからなければなりません、まあ、例えていうなら、あの、テレビやらご覧になるといつも演芸が、例えば漫才なんかやっています、ね、その漫才師の二人なら二人の人達がですね、一生懸命そのお客さんを笑わせようと努力しております。ところが、お客さんが一つも笑わにゃんところでも笑わない、ここは拍手が起こらなければならんと思うても拍手も起こらない、それはいかに一生懸命しておるようであってもです、客席とその芸をしておる漫才師との間になんの交流もあってない証拠なんですよ、ね。
例えばお客さんの方を向いとらん、漫才師は両方の方を向いておる、銘々が向きあっておる、お客さんの方ば向いとらん、いうちゃ、いうならば、悪口を言い寄ったり、もう喧嘩をするような風をしておってもです、客席のほうで笑いが起こっておる、拍手が起こっておる、ならばその芸能人と客席の方には交流しておる印なんです、ね、そうでしょうが。例えば、私共が神様に御祈念をしてない、いつもかつも御祈念をしておるわけじゃない、百姓しとりゃ百姓しとりながらでも、お商売にはお商売させて頂きながらも、ね、事務員は事務をとりながらでもです、ね、神様のほうに向いておるわけじゃないのです、仕事に向かっておるのですから、それでもです、なんとはなしに、神様と私共がです、お互いが交流しておるという事、ね、お道の信心の一番有り難いのはね、御神前に向かっておる時、お参りをしておる時、ここのお広前におるという時だけではなくてです、ね、お話をこう頂いておるという時だけではなくてです、銘々の御用に携わっておる時でも、それは、ちょうど漫才師がお客さんの方を向かずに、銘々の方だけをむい、銘々の方に向いておっても、やはり客席の方から笑いを送ったり、拍手が送ったりしておる時であって、はじめて舞台と客席とが交流しておるのであります、それが、信心の、お道の信心の値打ちであり、尊いところなんです、ね。
ですから、ましてここには信心の稽古に来るところであるところのこのお広前で交流しないなんていうな事があっては良かろうはずがない。話を聞いて助かると仰る、その話を頂かせて頂きながらです、いわゆる、今日の話はどげなん話じゃったじゃろう、なるほど、それは、意味は分からなかってもいいですよ、私がいう事が、表現がなかなか下手ですから、皆さんに分からせきらんのはいいのですけれどもです、先生があの話をなさる時にはあーいう表情で、あーいうジェスチャーをつこうてお話になったというだけでいいのです。先生の顔を見とったら何とはなしに有り難そうにお話をしておる、それだけでいいのです、ね、いわば、私と皆さんが通うておればいいのです。それに、お話の間は寝むってしもうとった、何がなんじゃらいっちょん分からんじゃったというなら全然交流してない、これではおかげは受けられない。
もう、十五、六年前、大牟田から荒木さんという方がここで修行しよりました、もうこの方は大変ひどい肺病でした、同時にお耳が、耳が全然聞こえないという人でした。私の身近でいろんな御用をしてくださる、もうあの人がここではあーいう御用の一つの形といったようなものを作ったという、もうそれこそ、至りに尽くせりでした、私が聞こえないから、言うても聞こえんのですけれども、心がいつも通うておったと思うんです。
私が例えばハンカチがほしいと、ふうっとハンカチを出して下さる、私がちり紙がほしいなあと思うて、ちょっとちり紙を前に持ってくる、もういつも私を見ておるのですから、見ておるだけでも分からんのですよ、けれども、心が何とはなしに通うておる、ね、こうやってお説教で月次祭で頂きよるでしょう、私がお説教台の上にたってからお話しをしております、みんなが一生懸命お説教を頂いております、そしたらですね、その全然聞こえんはずのない荒木さんがです、涙をぼろぼろ流しながらお説教を頂いておるんですよ、聞こえるはずはないのですよ、ね、ところが先生がです、何とはなしに有り難そうにして一生懸命お話をしておられるのを、いわゆる、見るだけなんです、それでも心の中から有り難いものが湧いてきたということがいえるでしょうが、これなんか交流しておる証拠なんです。ね。
ですからでうね、願いでも神様と皆さんが交流する、いわゆる、通う、私と皆さんが通う、ね、そして、何とはなしに有り難いもの、お話の内容が分かればなおさら有り難い、ね、そして、それを私は持って帰ってお互いの日常生活、家庭生活の中にその信心が生き生きとしてそれが行じられて行く時に、神様といつも、向きは神様の方には向いていなくてもです、心は向いとると同じ事、ね、どこででもいつでも神様へ拍手をして向こうておるようなもの、漫才をする人達がです、反対の方へ向いておってもです、客席の方では笑いが送っておると、拍手が送っておるというようにです、いつも舞台と客席が交流しておると。
そこに、みんながそういう事になるためにそういう工夫をいたしますですね、良く最近では歌をうたう人達が客席の方へ下りて行っておるですね、テレビなんか見とると舞台のほうじゃない、客席のほうへ下りて行って、子供とでも若い人でも年寄りでも一緒に歌いましょうというてからマイクを持って行ってから一緒に歌う、あれはお客さんとその芸をやってる人達が交流するための一つの工夫なんです、さぁー私が歌いますからみんなは一つ拍手を打って下さいと調子をとらせてから客席全体がこう拍手を打ってその歌に合わせて行きます。あーいうのは一つの工夫なんです、客席と一つになる舞台が。お客様はなからなければ舞台に上がって人でもない、もう一つになる、そういう雰囲気を作るための工夫なのです。お互いがです、信心の稽古をさせて頂くという事は、どういう風にすれば神様といつも一緒であると言ったように、われ神と共にあるというような気持がいつも頂けれるかという工夫をなさらなければいかんのです、そして、お話を頂いて、そこからヒントを頂く、ね、そして、それを、ね、便所の中にあっても、ご飯を頂きよっても、人とお話をしよっても、お商売をしよっても、野良に出て畑仕事をしておってもいつも神様と通っておれる工夫、そこに信心させて頂く者の値打ちというか、有り難さというか、お道の信心はそこなんです、ただ、お願いをしてきた、お参りをしてきたというだけではですね、お道の信心の値打ちは感じられません。
どうぞ、今朝から私が頂きますとです、もう皆さんの中にでもこうやってから御祈念をしておられるけれども、神様の方へお尻を向けて御祈念をしておられるような状態の人が、形はこっちを向いておるけれども、実際は尻を向けて御祈念をしておると言ったような事では神様に聞き届けて頂くはずもない。むしろ、神様に御無礼になるようなもの、ね、そういうような事があってはおらんだろうか、ね、いつも自分の信心に検討を加え、工夫をこらしてです、神様との交流を図らせてもらうおかげを頂かなければならんと思うのですね。
                              どうぞ。